
昭和のいるさんの訃報、寂しい知らせでしたね。あのへーへーが忘れられません。



あの相づちには計算された間の妙があったと聞きます。本当に独特の芸風でした。



88歳まで舞台に立ち続けた情熱も、多くの人に影響を与えたことでしょう。



その笑いは、きっとこれからも多くの人の心に残り続けるはずです。
日本の漫才史にその名を深く刻み、「へーへー」「ほーほー」といった独特の相づちで多くの人々に愛されてきた漫才師、昭和のいるさんが、2024年5月24日午後7時45分、肺炎のため東京都内の病院で静かに息を引き取られました。享年88歳でした。本名を岡田弘(おかだ・ひろし)さんと仰る昭和のいるさんは、漫才コンビ「昭和のいる・こいる」として長きにわたり活躍され、その唯一無二の芸風は、時代を超えて多くの観客の記憶に鮮やかに残っています。石川県出身で1936年7月23日生まれの昭和のいるさんは、昭和から平成、令和へと続くお笑いの潮流の中で、常に独自の存在感を放ち続けていました。
彼の訃報は、お笑い界のみならず、日本のエンターテインメント全体に深い悲しみと惜別の念を広げています。気のないようでいて、その実、観客の心に深く響く「間」とユーモアを追求した彼の漫才は、現代のスピード感あるコメディとは一線を画す、芸術的な領域に達していたと言えるでしょう。この記事では、昭和のいるさんの偉大な足跡を辿り、その芸風の奥深さ、そして彼が現代に残したメッセージについて考察します。
唯一無二の芸風:「気のない相づち」が織りなす「間」の芸術性


昭和のいるさんの芸風を語る上で欠かせないのが、「へーへー」「ほーほー」といった一見すると投げやりにも聞こえる相づちです。しかし、この「気のない」という表現とは裏腹に、その相づちには計算し尽くされた「間」と、相方こいるさんの奔放なトークを最大限に引き出すための深い意図が込められていました。彼らの漫才は、単にボケとツッコミの応酬に終始するのではなく、むしろその「間」と、そこから生まれる独特の「空気感」が生命線でした。
計算された「気のない相づち」の妙
相方の昭和こいるさんが日常の些細な出来事を語り、時に脱線し、時に観客を置き去りにするような自由奔放な話術を繰り広げる中、いるさんは多くを語りません。ただ、時折放たれる短い相づちや、ほんのわずかな表情の変化、そして絶妙なタイミングで繰り出す、それらの相づちが、観客の想像力を刺激し、笑いの渦へと誘い込むのです。いるさんの相づちは、決して会話を遮断するものではなく、むしろこいるさんの言葉を受け止め、それを観客の中で熟成させるための「時間」を提供していました。
この「引き算の美学」ともいえる芸風は、情報過多な現代において、あえて沈黙や余白を重んじることで、より深い共感や思考を促す効果をもたらしていました。いるさんの役割は、こいるさんの言葉の洪水を巧みに受け流し、その中から笑いのエッセンスを際立たせる触媒のようなものだったと言えるでしょう。
「間」が生み出す参加型アート
彼らの漫才は、単なる笑いを提供するだけでなく、観客が自らの心で笑いの要素を見つけ出し、楽しむという、ある種の「参加型アート」の側面すら持っていたと言えます。いるさんの「へーへー」「ほーほー」は、観客にとって「次はどうなるのだろう?」という期待感を抱かせ、こいるさんの話の行方を見守る共犯者のような意識を芽生えさせました。この観客を巻き込む力こそが、「昭和のいる・こいる」の漫才が長きにわたり愛され続けた理由の一つでしょう。彼らの作り出す「間」は、観客が自ら笑いを能動的に発見する喜びを与えてくれたのです。
漫才師としての足跡と功績:昭和から令和へと紡がれた芸の道


昭和のいるさんは、本名・岡田弘として、漫才師の道を歩み始めました。1936年7月23日に石川県で生を受けた彼は、日本の高度経済成長期からバブル経済、そして現代に至るまでの激動の時代を、漫才師として生き抜いてきました。漫才コンビ「昭和のいる・こいる」を結成してからは、数々の舞台に立ち、テレビやラジオにも出演し、その独特のスタイルで全国的な人気を獲得しました。
昭和の漫才ブームと独自のスタイル確立
彼らが活躍した昭和の時代は、漫才が国民的エンターテインメントとして隆盛を極めた時期でもあります。多くの漫才師がそれぞれの個性を競い合う中で、「昭和のいる・こいる」は流行に左右されない独自のスタイルを確立し、息の長い人気を誇りました。派手な演出や奇抜なキャラクターに頼ることなく、日常会話の延長線上にあるような、しかし奥深いユーモアを追求し続けたのです。
彼らの漫才は、師匠である獅子文六から受け継いだ「しゃべくり漫才」の系譜にありながらも、いるさんの特異なキャラクターによって唯一無二の形へと昇華されました。そのスタイルは、漫才という伝統芸能の奥深さを再認識させると同時に、普遍的な笑いの形とは何かを問いかけるものでした。
生涯現役を貫いた情熱
88歳という高齢まで現役として舞台に立ち続けたその姿勢は、芸への情熱と漫才への深い愛情を物語っています。テレビ出演が減った後も、寄席や演芸場を中心に活動を続け、生のお客さんの反応を何よりも大切にしていました。その姿は、多くの後輩芸人や、彼らの漫才を見て育った世代に大きな影響を与え続けてきました。昭和のいるさんの生き様そのものが、お笑いという芸の道の厳しさと素晴らしさを示していたと言えるでしょう。
漫才界の変遷と「昭和のいる」の存在意義:普遍的な笑いの追求と多様性


お笑い業界は、常に変化と進化を続けています。かつての漫才ブームを牽引した伝統的なスタイルから、スピード感や斬新なワードセンス、あるいは強烈なキャラクター性を持つ漫才へと、その形は多様化の一途を辿っています。YouTubeやSNSといった新たなプラットフォームの台頭も、お笑いの消費のされ方を大きく変え、若手芸人たちは日々、新しい表現方法を模索しています。
現代お笑いトレンドと「古典的」漫才
このような現代のお笑いトレンドの中で、昭和のいるさんのような「古典的」ともいえる漫才師の存在は、非常に大きな意義を持っていました。彼らの漫才は、流行りのギャグや時事ネタに依拠するのではなく、人間同士のコミュニケーションの滑稽さや、言葉の持つ「間」の面白さといった、普遍的なテーマに焦点を当てていました。これは、現代の目まぐるしい情報社会において、人々が失いつつある「ゆとり」や「心の余裕」を思い出させるものであり、世代を超えて共感を呼ぶ力を持っていました。
テンポの速い現代の漫才とは異なり、彼らの漫才は観客に考える時間を与え、じっくりと笑いを噛みしめることを許容するものでした。このスタイルは、ある意味でアンチテーゼとして機能し、お笑いの表現の幅広さを示していました。
多様性の担保と「芸」としての漫才の価値
昭和のいるさんの逝去は、一時代を築いたベテラン漫才師がまた一人姿を消したことを意味します。しかし、それは決して漫才の多様性が失われることを意味するものではありません。むしろ、彼らが残した芸の軌跡は、若手芸人たちにとって、漫才の奥深さや、表現の自由さを学ぶための貴重な手本となるでしょう。
彼らの存在が、お笑い業界全体の健全な多様性を保ち、単なる消費財ではない「芸」としての漫才の価値を守り続けてきたことは間違いありません。早すぎると感じる訃報は悲しい出来事ですが、同時に、日本の漫才史における「昭和のいる」という存在の重要性を再認識するきっかけにもなっています。彼らが守り育てた「間」の文化は、形を変えながらも新しい世代に受け継がれていくことでしょう。
笑いと人生の示唆:「へーへー」「ほーほー」に込められたメッセージ
昭和のいるさんの漫才、特にその代名詞である「へーへー」「ほーほー」という相づちは、単なるギャグとしてだけでなく、私たちの日常生活やコミュニケーションのあり方にも深く示唆を与えるものでした。情報過多な現代において、私たちはつい、多くの情報を発信しようとしたり、相手から何かを引き出そうとしたりしがちです。しかし、いるさんの漫才は、あえて「気のない相づち」を打つことで、相手の話を最後まで受け入れ、その中で自らの想像力を働かせることの重要性を教えてくれます。
傾聴と寛容さのコミュニケーション
これは、傾聴の姿勢や、相手をありのままに受け入れる寛容さの表れとも解釈できます。無理に相槌を打ったり、話を遮ったりするのではなく、相手の言葉に静かに耳を傾け、その「間」を楽しむ。こうしたコミュニケーションのあり方は、ストレスの多い現代社会において、人間関係を円滑にし、心の平穏を保つためのヒントを与えてくれるかもしれません。いるさんの相づちは、言葉を発することだけがコミュニケーションではないこと、沈黙や受容もまた豊かな対話を生むことを示唆しています。
生涯現役という生き様からの教訓
また、88歳という高齢まで漫才師として舞台に立ち続けた昭和のいるさんの人生そのものが、私たちに大きな教訓を与えてくれます。生涯にわたって一つの道を極め、現役でいることの尊さ、そして何よりも、人々に笑いを届け続けることの喜びと意義。彼の存在は、老いを恐れず、情熱を持ち続けることの大切さを私たちに示してくれました。
笑いが心身にもたらす良い影響は科学的にも証明されていますが、彼らはまさに、笑いを創造し、提供することで、自分自身も、そして多くの人々の人生も豊かにしてきたのです。その姿は、年齢を重ねることへの肯定的な視点を与えてくれます。
結び:昭和の笑いは永遠に、心に響く「間」
昭和のいるさんの逝去は、日本の漫才界にとって大きな損失であり、彼の個性的な芸風を愛した多くのファンにとって深い悲しみをもたらしています。しかし、彼が長年にわたって築き上げてきた功績と、その唯一無二の笑いは、決して色褪せることはありません。
「へーへー」「ほーほー」と表現されるあの独特の相づちは、単なる流行り言葉ではなく、日本の笑いの文化に深く根ざした表現として、これからも語り継がれていくでしょう。それは、言葉の裏側にある「間」の美学、そして相手を尊重し、受け入れる姿勢を象徴するものであり、漫才の奥深さを私たちに教えてくれます。昭和のいるさんが体現した「間」は、忙しない現代社会において、私たちが忘れかけている大切なものを思い出させてくれるでしょう。
昭和のいるさんが残した笑いは、今後も多くの人々の心に温かい光を灯し続け、新たな漫才師たちのインスピレーションとなることでしょう。私たちは、彼の偉大な功績に敬意を表し、心からご冥福をお祈り申し上げます。その飄々とした佇まいと、静かに響く相づちが、これからも多くの人々の記憶の中で生き続けることを願ってやみません。
参考文献